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不安定に揺れる背中の上、兄の嗚咽で目が覚めた。
今、己の置かれている状況がどう、ということよりも
正は兄・仁が「泣いている」ことに何よりも驚いた。

額がズキズキと痛む。鼻の脇をつたっているこのなま温かいのは血だ。何かで激しく額を切ったらしい。一応、その傷口は、おそらく仁によるものだろう、手近な布で応急処置として塞がれている。
何年ぶりかで兄に「おんぶ」されながら、ぼんやりと薄れてゆく意識の中で正はどうしてこんな事になったのかその経緯を、記憶の糸をたぐり寄せつつ思い出し始めた。
いつも通り兄と一緒に家を出て、学校に向かう途中で…ふと、昨日教わったばかりの技を自分も試してみたいと思ったんだ。
心羅流・「飛翔足」。父が雪の中で実演して見せた。打ち木はまるで吸い込まれていくかのように父の足に接触したかと思うと、同時に瞬く間に砕け散った。
自分にもやれる。そんな根拠のない自信が正を突き動かした。いつもの悪い癖だ。正は何事にも挑戦する「攻撃型」、父親が言うところの「攻め筋」だ。そんな弟を兄は冷めた目で「出来っこないよ」とたしなめる。正にはそれが理解できなかった。
なぜ、やってもいないうちから「出来ない」なんて言い切れるんだろう。
「やってみなきゃ分からないよ。…出来るさ。僕にだって。」
そう呟くと同時に正の体は地を離れ目標の木の枝めがけて飛び立った。
……その直後、何が起こったのか正は覚えていない。バキッと何かが折れる音と、額の表面が一瞬燃えるような熱を感じ、
同時に地面にたたきつけられる激しい衝撃が立て続けて正を襲った。
雪道に投げ出されて仰向けとなった正は、額に感じた一瞬の熱が今、猛烈な痛みに変わっていることに気付いた。
呆然と、こちらを見据える兄の姿を捉えた。そんな兄もろとも視界が赤く染まっていく。温かい血が滝のように流れだし、目に入ってきている。
「…ちゃん。」
「お兄ちゃん」と呼ぼうにもショックか、それとも痛みのためか声がかすれてうまく言えない。朦朧とし出した意識の中で正は兄・仁の足が震えているのに気付いた。
「…兄ちゃんでも怖くて足がガタガタすることもあるんだ…」
直後、意識は幕を下ろすように遠のき、視界が一気に暗くなっていった。仁が何か叫びながらこちらに走り寄ってくるのをかろうじて確認できた。

不完全だが今、この現状に至る経緯を思い出して、自分が今兄に背負われている理由を理解した。
「兄ちゃんが助けてくれたんだ…」
兄が、仁があの場にいなかったら、血を流しながら寒空の中倒れたままだっただろう。
「もう少しで学校だからな、正、頑張れ!」
泣きながら、鼻が詰まった声で兄が嗚咽混じりで自分を励ましている。背負われた状態なのでここからでは兄の表情は確認できないが、およそ今まで見せたこともないような、涙と鼻水でまみれた「らしくない」表情であることだけは確かだ。
仁がこんなに声を出して泣くということは珍しい。殴り合いの兄弟喧嘩をして父親に怒鳴られ、ゲンコツを食らったときも正は大声で思い切り泣くが、仁は涙目ではあるが握り拳で自分を抑え、ぐっとこらえていた。
『僕はおにいちゃんなんだから、しっかりしなくちゃ。』
弟の自分は何も気にせず泣き叫ぶことができるが、兄は「おにいちゃんなんだから」、と何かと色々なことを我慢している。
いつだったか、スケートで2人して派手に転んだときも仁は決して泣かずに、遠慮なくワンワン泣く正をなだめていた。
そんな仁を知っているからこそ、彼の意外な一面に正は戸惑った。
そんな戸惑いを感じながら正は再び目を閉じた。

次に気付いたのはベッドの上だった。上から顔を覗き込んでいるのは、兄ではなく、同級生。
今は1時間目終了時の休み時間らしい。
ケガをしているはずの額を触ると、そこはしっかりと包帯が巻いてあった。学校の保健室で正のけがは適切な処置をされていた。
友達に話を聞いてみると、あのあと仁は正を背負って学校にたどり着いた。家に戻るよりも学校の方が近いと判断したらしい。
頭から血を流してぐったりした正を背負って仁が校門をくぐった時、一時間目の授業はもう始まっていた。
もう誰もいない校庭を誰かが歩いてくるので目を凝らして見てみると、4年生の立脇仁が泣きながら弟を背負っている。
「先生!ただしくんが!!」
尋常でない2人の様子に気付いた、正のクラスメイトが叫んで外を指さすと、児童は一斉に窓際に駆け寄り大騒ぎになった。
(仁のいるクラスでも同様のことが起こっていたそうだ)
そして教師たちが急いで校庭に出て、2人を保護したのだった。
児童達の驚愕の対象は、血まみれ状態の正はもちろんだが、「立脇仁が泣いている」ことだった。
「武道をやってて、あんなに強い立脇くんでも泣くことがあるのね。」
保健室の先生までもが意外そうに言う。
「そうそう、おれもビックリした。」
「ぼくも。」
周りを囲む友達も同様の反応を示す。やっぱり珍しいんだ、兄ちゃんが泣くのは…
「でもまあ、大事な弟がこんなに大ケガしたらビックリして泣いちゃうのも無理ないわね」
と付け加えたその言葉が正は少しくすぐったかった。
「お兄ちゃんの所に行って知らせて来なさいな。”もう平気だよ”って。さっきだって1時間目の途中まで付き添ってくれてたのよ」
保健婦曰く、仁は正が目を覚ますまでここにいる、と希望したが強制的に授業に戻るように説得したそうだ。命に別状はないから、と説明するとやっと納得して渋々教室に戻っていったという。
成績も良く、そして真面目な兄が、弟のケガを口実に授業をさぼるなど想像できない。本当に心配だったのだろう。
いや、みんなに泣き顔を見られたから恥ずかしくて、それで教室に行きたくなかったのかも…そんな罰当たりな考えもよぎったが、兄の性格を考えると、それはないと思った。
途中まで友達に付き合って貰って、正は仁のいる4年1組の教室にたどりついた。上級生のいる階は来ると緊張する。
寒いので教室の戸は締まっている。「どうしよう…」正が教室の前でうろうろしているところへ
「どうしたの?」
と声をかけられた。振り向くと、どうやらこのクラスの女子らしい2人組が正を見下ろしていた。
「おにーちゃんいますか。」
「ああ、立脇くんね。」
まだ名乗ってないのに誰の弟かなぜわかるんだろうと思ったが、自分が頭に巻いている包帯で分かったのだろう。話を聞く限りではかなりの騒動だったらしいし。よく考えると、その騒動の原因は自分であるので、ここに来て兄に会うのが怖くなった。
「でも、珍しいよね。立脇くんが泣くなんて。」
「ねー。立脇くんでも泣くんだ。」
目の前のお姉さん2人の会話からも、事の重大さが手に取るように分かった。同時に、自分のために泣いてくれたにもかかわらず、こうして軽くオシャベリのネタにされてしまっている事に多少腹立たしくもあった。が、
「あたし、立脇くんのこともっと好きになっちゃったかも…」
顔を赤らめてそう呟くのを聞いて、すこし安心した。どうやら「幻滅」ではないらしい。兄の株は下がっていない。
戸を開けると、窓際の方に仁はいた。友達数人に囲まれ、何やら談笑している。笑ってる。良かった。
あのお姉さんが仁のほうに向かって何か話しかけ、こちらを指さすと、仁はこっちをみた。
正は罪悪感からか、一瞬その視線にひるんで「うっ」とたじろいだが、何も逃げることはないんだ。もう元気だよ、と報告するんだから。と自分に言い聞かせた。
仁がこっちに歩いてきた。いつも優しい兄のことがこんなにも怖いと感じたのは、これが初めてかも知れない。
さっき気を失った時と同じように、頭が熱くなってきた。
「もう平気なのかよ」という仁の第一声はかろうじて聞き取れた。そして正の包帯で覆われたケガの部分をさすりながら笑って何か言っていた。動揺して、何を言われたのか正の耳には入らなかった。
笑っている。怒るでもなく、悲しい表情をするでもなく、仁は笑ってくれた。安堵感が正の心に広がる。
「正じゃん。もう痛くねーか?」
仁の後ろから、仁の友達がふざけながら声をかけてくる。今回の一件で友達の態度もいつもと変わることはなかった。
仁に「ほんとに平気かー?」と頭をゆすられた。
うんっ、と頷いた反動で目から何かがこぼれ落ちた。それが自分の涙だということに気付いた時にはもう、あとからあとから湧き上がって、頬を濡らし、唇を噛んで押し殺していた声も無意識のうちに漏れていた。
気が付くと、仁にしがみついて泣いていた。
「泣くなよ、正ぃ〜」
仁の友達が赤ん坊をあやすようになだめてくる。仁も「しょーがねーな」と言いつつ頭をさすってくれる。

教室じゅうの視線を感じながら、正は兄の胸の中でとうとう声を上げて泣いていた。

外はまた、雪が降り出していた。


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